プロのデザイナーだけが参加して語る五輪エンブレム問題


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001 2015/08/27(木) 21:14:34 ID:Rc/xYFZmz.
10年ほど東京の電博の下請け事務所でチーフADやってた自分としては
サノケンのデザインワークはいつも上手いなあと憧れがあったし、
軽快に独立して成功を勝ち取って行く営業力には敬服も覚えてた。
しかし五輪エンブレム(盗作とかの騒動になる前から)には違和感があった。
発想がチープだし、完成度も低い。だいいち直感的にカッコ良さがまるでない。
悪いのはサノケンのネームバリュだけで選んだ選考委員や役人の軽薄さだと思った。
いま起きてる盗作騒動には、素人のバカどもの薄っぺらなバッシングにイラついてはいるものの
サノケン五輪エンブレムがむやみに賞賛されない日本人の基本的センスの良さには感心してたりする。
みなさんはどうですか?この世界でメシ食ってる(た)人だけコメントください。

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051 2015/10/18(日) 10:44:53 ID:ZFLljEIR4k
日本の伝統に立ち返ってみると、一つの答えが見えてくると思う。

そもそも日本には「デザイン」というものは無かった。カタカナで表記されている事からも分る通り外来の概念。
では日本の伝統の中に「デザイン」は無かったか?と問われれば、否、有った。

例えば織物などの模様に工夫を凝らしたり、美を追求する文化は有ったし、工芸品でも装飾を施す文化は有った。(テキスタイルデザインやインダストリアルデザイン)
しかし、装飾専門の人というのはいなくて、職人が装飾を考え、形にしていくという産業構造だった。
日本刀を一振り作るのに、たたら職人、鍛冶職人、砥ぎ職人、鍔職人、鞘職人。。多くの職人による分業制。今で言えばワークシェア的な産業構造。
次工程の職人に恥ずかしくないように精魂込めて作る。そうやって各工程の職人が独自に装飾を施していくという構造。次工程へ渡しても出来が悪ければ突っ返されるか、別の職人のとこへ持っていけと断られることも有る世界。
着手から完成まで、総合的かつ計画的に監督する立場の人はいなかった。一人の個人が監督するのではなく、集団や世間、業界や社会などが監督する構造で、これは空気による意思決定をするという、実に日本的な産業構造と言える。

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052 2015/10/18(日) 13:12:34 ID:ZFLljEIR4k
>>51 の続き

デザインとアートは違う。という書き込みが有りますが、それはデザイナーとアーティストはスタンスが違うという事です。
デザインとアートをもっと厳密に整理すれば、技術と芸術は完全に切り離せない場合があり、むしろそれを積極的に融合させるのがデザイン。
職人は根本が技術者であり、その活動の結果として副次物としてに芸術性を発揮する場合がある。
芸術家は根本が表現者であり、その活動の手段に技術が必要になる場合がある。
デザイナーとは技術と芸術の架け橋的存在であり、双方をバランスさせる事が求められる。

技術屋である職人が芸術的な装飾を施してきた日本の伝統文化には、職人と芸術家の区別は有っても、デザインとアートの区別は無く、職人が芸術分野を侵食してきたのが実態。

産業構造の変化に伴って職人的気質は技術面でのみ活かされ、表現者的気質は埋没させられてしまい、その穴埋めとして計画的な芸術表現を賄うものとしてデザイナーが求められてきた。
本来その意味においては、デザイナーは総覧的立場に立つべきであり、社会的にもそう認識させるべきだが、経済合理性を優先される企業活動の中では地位を向上するに至らなかった。
佐野のような権威的存在や象徴的ブランドのみが、経済合理性の中で生き残り、表現者としてのアイデンティティは死んでいった。

デザイナーを技術と芸術のバランサーとしてではなく、技術と経済合理性のバランサー、乃至、芸術と経済合理性のバランサーへと貶めてしまった。
これは単に一業界の問題ではなく、日本社会全体の問題
「素人にはわかるまい」と言っても解決しないが、素人が理解しないから、わかりやすい経済合理性を優先してきたのも事実であろう。

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